信じるということ。

>>>ボーダーライン。




他人を信じるかどうか、という時に、「この人のことを信じる」という考え方をあまりしない。「この人になら裏切られてもいいや」という考え方をする。後者の考え方には「信頼を裏切られる可能性はまずないけれど」という「相手を信じること」と近い部分も含まれてはいるが、でも何事にも「絶対」なんてありえないから、という理由で自分に保険をかけている。だが、「絶対」だ、と、その人に全てを賭けるということが「信じる」ということではないのか。

「この人は信用に値する人だ」という判断を下す場合、「この人は私だけは裏切らない」という、対自分との関係・感情を重視する場合と、「この人は誰に対しても裏切ることはしない(よって私のことも裏切らない)」という、相手自身を重視する場合があると思われる。裏切られた、という場合、前者は「相手との関係性を読み違えた」という自分の判断、後者は「相手の人間性を読み違えていた」という自分の判断が誤りであったことにショックを受けるのではないかと思う。人を信じるということは、同時に自分の判断力を信じることでもあるだろう。

「裏切られても良い」という考え方は、信じることで自分が傷付かないための保険であると同時に、相手に対する保険でもある。「私はあなたを信じていなかった、だからあなたは私を裏切ったわけではないのだ」と。「信じる」ということで、相手に責任を預ける形になるのが嫌なのだと思う。「この人には自分のために責任という負荷を与えても良い」と思える、ということも「信じる」ということに含まれるのかもしれない。

「全ての責任を誰にも預けずに自分の手中においておきたい」というのは、責任感が強いということではなく、むしろ子供的願望だろう。多かれ少なかれ、誰かを頼ったり誰かを傷つけたりせずに生きていくことなどできないことを、大人である私は知っている。また、誰かに全てを預けることは楽で心地がよいことでもあるということ、誰かから全てを預けられるということは時として喜びや快感でもあることも知っている。誰かと持たれ合う時に生まれる甘い重み。

「信じない」「信じられていない」ということは、それ自体が自分と相手を少しずつ疲れさせるものでもある。全てを預けられない相手と推し量りながら付き合う面白さ、というのもあるけれど。「絶対」なんてありえない、けれど、「絶対」だと思える瞬間というのは確かに存在するのだ、「永遠」を感じられる瞬間が在るように。掴めないものに触れた感触、存在しないものの存在を信じるということ。


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