アタマのいいひと。

>>>ボーダーライン。




アタマがいいヒト、が好きだ。という言い方は、なんか頭が悪そうでどうかとも思うのだが。成績とか、ましてや学歴なんかはどうでも良かったりはするのだが。私は、テストの点数などよりも、「機転が利く」とか「カンが鋭い」とか「笑いにセンスがある」とか「のみこみが早い」とか「絶妙な気配りができる」とか「判りやすい話ができる(書ける)」とか。そんなことが「頭の良さ」の現われ方だと思っているので。

成績や学歴に興味がないというのは、頭の出来とは別に「努力」とか「本人の興味」とか、学歴においてはソレに加えて「その他の事情(経済面とか、志向性とか、その他いろいろ)」なんかも入ってくるものだからアテにはできない、というのが理由だ。ただ、お勉強に関しては、「点数を取る為の勉強方法を飲み込むセンスがある」とか「偏った専門分野だけであっても、知的好奇心を持っている」とか、そういうことは「頭の良さ」の基準になるのではないかとも思う。

一番話にならないのは、自分の頭の良さをふりかざすタイプだ。自分は頭が良いという自慢は、大抵それ自体が頭が悪く見えるものだし、難解なコトバや文書を提示するのは(特定の効果を狙ってワザとやってる場合は別として)相手に判りやすく伝えるいうことに頭を使えない証明のようなものだと思う。要するに、相手がどう思うかを考えられない、という点が「頭の悪そうな印象」につながるのだろう。それで頭がいいと思ってもらえると思ってるのなら、頭悪いと思う。

機転だとか気配りだとか、私が基準として挙げたものは全て、「頭の良し悪し」だけでは片付かない話でもある。誰かと何かしらのコミュニケーションを取る時に、「その相手に対して 『親切心』や 『サービス精神』を発揮する」という前提がまずあって、そのやり方に能力が現れるということだから。で、これは余談だが、私は「頭の良し悪し」と別に「イイヒト」もキライじゃないので、「やり方は不器用でも誠意が見えるヒト」も、また別の意味合いで好きだったりはするのだが。

「頭のよさ」は、場合によっては「悪意」なんかを伴って発揮される場合もあると思う。ただ、「悪意に対する 『自分の基準』とか 『羞恥心』とか 『美意識 』なんかを持ってない人」というのも「アタマが良くない」のではないかと思うのだが。そういう「自分の文化」を育てている人は好きだ。己の感情や欲望の一部を「自分の文化」に縛られて、葛藤したり、ストイックになったり、自分で定めた禁を破ることに一人で罪悪感や羞恥心を感じたりする様も、魅力的だと思う。

私が「アタマがいいひと」を好きだというのは、「自分に気配りをしてくれる」とか、「自分に無い能力を持っている」とかいうことよりも、まず第一に、その人のイビツさを魅力に感じるのだと思う。その人たち本人が、己のアタマが良いが為に、気付かなくてもいいことに気付いたり、自分の文化に縛られたりした挙げ句、何かをすり減らしていくことで出来るイビツさやバランスの悪さ。線上に危ういバランスで立っている者が持つ魅力。誉めコトバかどうかは判らないが。


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